飲食業界で「この会社の製品を選べば間違いない」と言われている会社がある。その会社は東京都品川区に本社を構え、日本全国に88箇所もの営業所を有する厨房機器メーカーのタニコー株式会社だ。人気の秘密は「生産する製品の70%がオーダーメイドであること」だという。しかしそんな同社だが東日本大震災時には工場が稼働停止となり製品の供給不足に陥ったこともあるにもかかわらず、同社の業績は右肩上がりで、2018年3月期は年商524億円と過去最高を更新している。不況や悪条件下でも追い風にかえるタニコー式経営とその個性的な社長の横顔をご紹介する。
会社概要
タニコー株式会社は1946年創業、本社を東京都品川区に置き、資本金520,000,000円、全国88箇所の営業所、7工場(関連会社には4工場)、従業員数1,535人(2018年3月末時点)、年商524億7,100万円(2018年3月期)という業務用厨房機器及び関連機器各種の国内最大手メーカー。
https://www.tanico.co.jp/
タニコーを選ばない人生選択

Q1.社長になるまでの経緯など教えていただけますか?
父がタニコーを経営していましたが、私が子どもの頃に見ていたタニコーは、“職人さんが怖い”というイメージが強かったため、子どもごころに「絶対会社は継がない」と考えていました。
そこで「タニコーで働くのではなく、将来は音楽で食べていこう」と思い、音楽大学に入学したのです。しかしいざ卒業する段階になって、ピアニストや大学の先生になるには、30歳、40歳になるまで勉強を続けなければいけない世界ですので、自分の場合は無理だな、と判断し就職を考え始めました。もちろん就職に際しタニコーは選択肢にありませんでした(笑)。
ただ4年生になっても就職活動をしなかったんですね。会社訪問もしていない。そこで慌てて大学の学生部に行くと、求人票が何枚かあって、「これでいいや」と手にした求人票をもって、その会社に面接を受けにいきました。その会社はのちに東証一部に上場する情報システム会社だったのですが、SE(システムエンジニア)の求人ではなく、女子事務員の採用を考えて音大に求人を出していたそうです。すると「音大から男がやってきた!」と社内はざわついた、とのちに言われました(笑)。
とはいえ就職活動にきた学生を無下に追い返すわけにもいかなかったんでしょう。通常はすでにコンピュータの素養がある学生ばかりの面接を行なっていた人事担当の方も、「どうしたものか」と困り果てていたそうです。すると、ちょうどその日には社長がいらっしゃるということで、「君、ちょっと待っていなさい」と書類を持って社長室に入って行ったのです。そしてしばらくするとニコニコして出て来られ、「社長に理由を話したら、『面白いから採用!』となりましたよ」と言われました。受けるほうも受けるほうですが、採るほうも採るほうですよね(笑)。
注目されることで仕事に“開眼”!
実際入社してみると、同期入社の同僚は理系の学部や専門学校でそれなりにコンピュータについて学んできている者ばかりです。自分のようにコンピュータの勉強などまったくをしていない者はいません。
その後、まずい状態がやってきました。当時会社の命令で、国家試験である情報処理技術者二種の試験を必ず全員受けることが決められていました。会社が受験料を払っているので受けないわけにはいかない。全員が教科書を入社時にもらいましたが、明日試験というその日になってもまだ本の表紙も開けてさえいない。本には「はじめに」というページがありますが、開けていないので、はじまりさえしていないわけです。
これには試験前日になって焦りました。
成績結果が会社に送付されてしまいますから、点数が低いと不勉強なことがバレてしまう。そこで何か良い“いいわけ”を考えなければいけない、と考え、思いついたのが試験前の「残念会」の開催です。大酒を飲んで、体調を崩してしまった、ということにする作戦です。試験前日の金曜日に「六本木で残念会をやろう」とみんなに言ったら、みんな「やろう、やろう」となりました。シメシメとばかりに、試験前日に六本木にくりだして、飲み会を行なったのですが、明日が試験ということで、みんな途中で帰っちゃうわけです。
結局自分一人だけ大酒を飲んで、翌朝4時くらいに知らない駅で目が覚めて、タクシーでなんとか自宅に帰り、なんとか試験会場に辿りつきました。
試験では「時間最後までギリギリまで粘って、一応全部に印をつけるぞ!」と自分を奮い立たせました。マークシートなので、とにかく埋めることはできますよね。
答えがわかっていて書いたわけではなく、「この単語はぼくを呼んでいる」などと勝手なヤマ勘で埋めていきました。
その試験ですが、なんと受かったのです! しかも同期で三人だけでした。
後日社長に呼ばれて、賞状を授与していただけるのですが、私だけ「谷口君、君は本当によく受かったね」と感心されたように言われました。
しかし何が幸いするかわかりません。このことが自分にとってはひとつの転機となりました。他の人から「すごい」といわれたり、注目されたことから興味のなかった仕事にも俄然興味が湧くようになりました。“人は注目されることで、本人も考えつかなかったような集中力を発揮することができる”と学んだのです。
結局そこからはかなり勉強し、2年後、情報処理一種試験を受験するのですが、社内でこの試験に受かったのは私一人だけでした。
しばらく会社勤めをしていると、ある頃から急に父親が自分の会社の話をしてくるようになりました。そんなある時、父は私にこう言ったのです。「散々好きなことをやらせた、音楽大学もいかせたし、コンピュータ会社もいいだろう、だがそろそろタニコーに入らないと、私(父)ももうすぐ60歳になってしまう。そうすると経営を教える時間が限られてくるので早く入社しなさい」と。
そこで、会社の休日を使って、福島と福井の工場を見に行きました。そうしたら目の前に広がっているタニコーの工場は、子どものときの印象とはまるで違い、コンピュータも導入されている近代的な企業になっていたのです。もちろん怖い職人さんもいません(笑)。
タニコーから逃げていた人生でしたが、その呪縛から解放されたかのように、俄然やる気がでて「入社する」と決意しました。それが1986年、25歳の時で、まず福井県にある株式会社タニコーテックという子会社に入り、その後タニコー株式会社に入社し、2010年から社長となっています。
